江戸以前~江戸時代
江東区は、江戸時代までは東京湾に注ぐ河川のデルタ地帯の一部で、海面と散在する小島があるだけでした。しかし、亀戸周辺には、人が住んでいたことを示す伝説や地名が残されています。
江東区の発展は、江戸初期からの埋立てに始まります。慶長期(1596年~1615年)に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。また、万治2年(1659年)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行い、砂村新田と名づけられました。
明暦3年(1657年)の大火後、幕府は火事に強い町づくりを計画し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。まず貯木場を永代島に集めて木場を創設し、元禄14年(1701年)に現在の木場に移転させました。さらに埋立て開発の進んだ深川地区には、武家屋敷や社寺を移し、正徳期(1711年~1716年)になると市街地に編入されました。
区内を縦横に走る河川を利用しての木材・倉庫業、米・油問屋の町として栄えた深川地区は、社寺の祭礼、開帳などの年中行事を中心に、江戸市民の遊興地としても賑わい、江戸文化の華を咲かせました。
一方、城東地区は、江戸近郊の農地として、西瓜、カボチャ、ナス、ネギなどの野菜類を江戸市民に供給することで栄えました。また、江戸近郊の行楽地としても知られていました。
現在、亀戸大根は復活に向け、一部の人々により大切に育てられています
明治時代以降
明治時代になると、江東区は広い土地と水運を利用した、東京の工業地帯となりました。明治11年に深川区が発足、昭和7年には南葛飾郡に属していた城東地区が城東区となり、東京市は深川区・城東区を含む35区となりました。
昭和18年に都制が導入され、22年には35区の区画整理が行われて、深川・城東の2区が合併し現在の江東区が生まれました。さらに同年、新しい地方自治制度によって、今の23区制となりました。
現在の江東区は、水に恵まれた自然的特性をいかしながら「みんなでつくる伝統、未来 水彩都市・江東」を目指して、発展しています。
明治時代の浅野セメント工場
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